Cure
「あ」
凝った調理器具が増えて生活感が見え始めた台所に、僕の惚けたような声が反響した。
赤黒い肉腫の間の橙色の肌を、目を刺すような鮮やかな色でぽつぽつとつなぐ赤色の点線。
包丁の刃の下の部分を使ってじゃがいもの芽を抉り取っていたら、うっかり刃の中間部分が指先に掠ったのだ。
どこか上の空の気分で、視界の中をせかせかと動く自分の肉腫を目で追うようにしてしまっていたのは確かだった。
……血だ。久しぶりに見た。
絆創膏、どこかにあるかな。
手を洗って和室に向かう。棚を探ったら偶然絆創膏の入った小さな箱を見つけて、台所に持ってきた。箱は未開封の新品だった。それに、開けてみるとサイズはやや小さめ。彼が自分用に買ったものだろうか。彼自身、一日一回一錠の服薬が欠かせない体……かつ、家でこんな重病人の世話もしなければならないのだから、ちょっとした怪我は自分で手当てできるように気を付けているのだろう。僕なんかのせいで……あ。うっかり絆創膏の台紙を全部剥がしてしまった。端が捻れて指にベタベタとくっつく。なぜだか焦る。手間取ってしょうがない。
なんか、変な感じだ。体中が病に冒されるほどこれだけ自分をズタボロにした僕が、今は肌の表面に小さな傷ができただけで慌てている。
軽く傷口が擦れて、引き攣れたような薄い赤色が絆創膏のパッドに付着する。
これは、吐き気を催すほどの危険な毒が溶け込んだ液だ。そう、まさにソラニンみたいな。間引くべき悪の芽。僕は自分で望んでその苗床になった。
愛する人とお互いの血を分けた子供を授かる。そんなありふれた幸せの道が始まることさえ赦されないのなら、何に命をかけるか、それだけを早々に選んでやろうと思った。完全なる自暴自棄だった。
結果、したいと思ったこともそれほどできなくなって、今、人生で最も愛する彼の健康さえ脅かして、無様に深淵の縁にしがみついている。
僕はもうひとりじゃなくないからこそ思う。できるものならば、こんな体、じゃがいもの芽みたいにかなぐり捨てられたならいいのに。
「ただいま~。……カポジくん?」
急に背後から可憐な声が投げかけられる。僕は手元に注意を引かれて、彼が帰ってくるのにも気付けなかった。
どくっと心臓が鳴る。くそっ、なんでだ。
「あれ、絆創膏だ。もしかして怪我……しちゃった?」
僕は何も言わずに顔を背け、絡まった絆創膏が辛うじてぶら下がる指を、右手で包むように素早く隠した。
その瞬間、まな板の上に置いていた包丁の柄に肘が当たった。包丁が弧を描いてざりりと滑り、まな板の縁のギリギリで止まった。
腰が抜けたようにマットの上にへたりと座り込んだ。
どっ、どっ、どっ、どっ、と熱く心臓が拍動しているのに、体は血が凍ったように冷たかった。
足の上に落ちていたら、もはや絆創膏どころの騒ぎじゃない。
僕は、迷惑に迷惑を重ねるところだったんだ。
「怪我、しちゃったんでしょ。見せて」
視界がじわりと滲んでしまう。彼が、僕にいつもと変わらない穏やかな顔を見せてくれているのを見ていたら、もう堪えられなかった。
「……だって。ここからバイ菌が入ったら、簡単に高熱が出て、君に迷惑をかけちゃうと思ったんだ。君が帰ってくる前にどうにか自分でなんとかしようと思ったけど、色々考えちゃって、上手くいかなくて」
「わかるよ。僕には君の気持ちがよくわかる」
彼は、僕の指に無様にぶら下がる穢れた絆創膏を、嫌な顔ひとつせずに剥がし取って、そっとごみ箱に捨てた。そして、いつの間にか持ってきていた消毒液でそっと僕の傷口を消毒してくれる。ひやっとして傷口がぴりぴりと痛むけど、反対に胸の奥の痛みは引いていく。
「でも、隠さなくたっていいじゃん。怪我なんて誰にでもよくあることだよ。怪我しちゃったらそのときはそのときで、ちゃんと手当てすればいい。君はさ、切らしてた調味料を買いに行かなきゃならなくなった僕を少しでも楽にするために、今日の夕飯の当番を代わってくれたわけでしょ?そんな優しいひとが怪我しちゃうほど一生懸命にご飯作ってくれてるなんてさ。僕は、すごく嬉しいよ。自分を褒めてあげて。……ね?」
傷付いた指に、新しい絆創膏が綺麗に巻かれる。彼の肌の色に近い淡い色味。まるで、彼の指が優しく僕の指を掴んでいてくれているみたいだった。
「ありがと、……これっ、もうずっと、着けてようかな……」
「……じゃあ、ふやけてきたら交換してあげるよ。これからもずっとね」
今世、僕らが僕らである限り、この指に嵌まるものを贈り合うことができないのは本当に残念だと思う。
でも、僕は、僕らは、普遍的な男女の仲に負けないくらいお互いを深く愛し合ってる。その事実で日々満たされていることは確かだった。
「……迷惑だなんて思わないよ。君は自分のことをあまり話してくれないけど、君が以前愛した人とか、色んな人に迷惑かけちゃいながらも必死に藻掻いて生きて……それを経て、今こうして僕と巡り会ってくれたんだから。僕は、これからも続く君の軌跡を、迷惑だなんて決して思わない」
「僕はこうやって、まるで自分のことのように色んなことをわかってあげられて、一番近くにいてあげられるから、幸せだよ」
年甲斐もなく鼻をすすりながら彼の体に擦り寄った。手元から漂う消毒液の匂いが詰まりかけの鼻腔を刺激する。
何をしたって、悍ましい行いでできた致命傷の治りが早くなることは決してないけど、もう滅多なことでは新たな傷は増えないだろうと思う。一生をかけて、こうして報われて、癒えていくから。