日は廻る
大きな掃き出し窓の向こうのベランダで洗濯物を取り込む彼の背中を、重い瞼を押し上げながら眺めていた。
僕も早く手伝いに行きたいけど、さっき取り込んだばかりのこのふかふかの布団の上で丸まったまま、動けなくなってしまった。こんなに心地いいおひさまのにおいをさせているんだから、仕方がない。
今日も朝からかなり日が照っていたけど、一番暑い昼を避けてふたりで食材の買い出しに行けたし、洗濯物も見事にカラッと乾いたし、今になって日が落ちてきたら結構過ごしやすくなった。今日もいい一日だった。まだ夜にもなってないけど、そう思う。
重病人の僕が言うと冗談ではない感じになるけど、夏はいつも、今年こそ死んでしまうかもしれないと思いながら過ごしていた。彼が僕と一緒になってくれてから、ありがたいことにそれもなくなって、今年も死ぬわけにはいかないと強く思うようになった。
体を重ねて生命の危険を冒す以上に、こんなに心が満たされることがあったなんて。僕、知らなかった。
そっと窓が開いて、切ないひぐらしの声とともに彼が現れた。
ああ……湿気った外の熱気に晒されて、艶のある黒髪がいつもよりぺたっとしているし、頬もほんのり赤くて、可愛いな。
僕の熱い視線に特に反応することもなく彼は僕の視界から消えて、ガシャ、という物音がしたと思うと、僕のお尻が大きな音と共に何かに強く吸われた。
首だけで振り向くと、彼が真面目な顔で掃除機を手にしていた。
「あ、ごめん。おっきいダニかと思った」
ひどいなぁ……。
丸まった背中がしおしおと萎みそう。嫌な気持ちになったとか、傷付いたとか、そういうのじゃなくて……なんだかすごく気恥ずかしくて。
僕って、こんなあったかいところにいていい存在なのかな。僕を認めてくれている彼に失礼だと思いながら、今もたまにそんな具合に思考がスッと冷静になって、思考回路が焼き切れそうになる。
ああクソッ。可愛い。
君は本当に何をしても可愛い。愛おしいよ。
彼が、僕の背中に体をくっつけて布団に横になる。目立った身長差のないふたつの体。まるでおそろいのスプーンが重なってるみたいだ。いつもは僕が彼を後ろからぎゅっとすることが多いからちょっと不思議な感覚だけど、決して悪い気はしない。
「あれ?物知りカポジくん、今日はなんだか元気がないね。『知ってるかい。ダニといえば』……みたいなお話が始まらないなあ」
いや、ほんと恥ずかしい、やめて。まさに今ちょうど考えてた。調子狂うなあ。
「し、知ってるかい……。『おひさまの匂いはダニの死骸の匂い』という知識を堂々とひけらかす連中がいたりするけど、それは間違いなんだ。いわゆるおひさまのにおいというのは、布団の綿などの繊維を構成するセルロースが太陽光に含まれる紫外線によって分解し、脂肪酸やアルデヒド、アルコールなどの微量な揮発性物質が発生することで生じるものであって、ダニの死骸とおひさまのにおいは無関係なんだよ」
「はえ~!確かに。おひさまのにおいが本当にダニの死骸から発せられているのなら、お布団は干さなくてもずっとおひさまのにおいになるはずだよね……!」
「生きとし生けるもの全てに平等に降り注ぐようなあたたかさを感じるこの香りを、知ったような口で『それは実際は無数の死が過ぎ去った跡である』と騙るだなんて、実に愚かだけど詩的でもあるよね」
「この前までこの世の終わりみたいなゴミ部屋に住んでいたダニが何か言ってるよ~?」
「うっ……」
「……干して」
「えっ、君を!?ベランダの柵に?まるで布団みたいに?」
「うん……」
「なんで急に……?」
「日光浴をすることで生成されるビタミンDには、免疫力を高める作用がある。僕は……免疫力を高めなきゃいけない……」
「自分の意思で免疫細胞を破壊した人が急にどうしたの……?」
「僕、君への免疫がない、から」
今の僕、すごく青臭くて、童貞っぽい。僕は、彼よりずっと大人で、何もかも経験してきて、何事も達観してると思っていたのに。実際は、僕はこんなあったかい気持ちすらよく知らなかったから。
「なんで君は僕に免疫あるの?僕はこんなに君への免疫ないのに」
「え~。僕、ちゃんと好きだよ。これからもずっと愛する覚悟であのとき君と、あの、うん……言わせないで……」
「ああ……そうか。僕のポジ種を接種したから、免疫ができたというわけか……」
「なっ!?なんで勝手に納得してるんだよ!ポジ種にそんな効果があるわけないだろ!」
「……カポジくん。気が向いたらちょっとベランダに出てみなよ。意外と風も涼しいし、ご近所さんが育ててるひまわりもよく見えるよ」
彼が、僕の指にあたたかい指を絡ませて握り、そのまま手の甲にキスをしてくれた。
……ひまわりか。僕がご近所さんにこの姿を見られたら気味悪がられるんじゃないかとか、彼も変な目で見られるんじゃないかとか、不安ではあるけど……ちょっとだけ、見てみたいな。
まず、最近まで周り近所にどんな人たちが住んでいるのかすら把握しようともせず、何の面識もない他人同然のパートナーたちとはすぐに知り合っていたという状況は、異様だったなと自分でも思う。僕はもう、あんな向こう見ずなことはしない。決してひとりじゃないから。
彼の指先が、僕のこめかみや頬に添って走る肉腫を優しくなぞる。
「ひまわりみたいだね」
クソ、なんだよ……。胸がぎゅっと苦しくなる。この布団の上で普段は僕に縋り付いて蕩けた声出してるくせに……卑怯だよ。僕ばっかり……。
花どころか、人ですらないような僕を眩いものに例えてくれる。僕って、こんなに愛されていいのかな。おひさまのにおい。これが死ぬ瞬間に感じられる香りだったら幸せだな。もう、今ここで死んでも構わないと思う。彼と一緒にいたいから、まだ生きるけど。
月並みな例えになってしまうけど。
「僕がひまわりなら……君は、おひさまだね」
光すら見えない真っ暗な闇の中で生きてきた。自分がどこに進んでいるのかすら分からなかった。
でも今は、光の導きのままに、顔を上げていられる。畏れ多いくらい尊く愛おしいものが、いつも僕を照らしてくれる。君だけを見つめていられる。
素早く体を捻って、両腕で日光の束を結うように彼を捕らえた。
ふたりで、花が揺れるみたいに笑った。
……花のような人生だ。